東京地方裁判所 昭和35年(ワ)8075号 判決 1966年3月22日
東京相互銀行
理由
一、原告が土木建設請負を業とする株式会社であり、被告が東京手形交換所に加盟している相互銀行であること、被告銀行堀留支店は、昭和三五年七月一一日、訴外銀行長原支店より東京手形交換所を通じて本件小切手を支払のため呈示されたが、被告銀行堀留支店においては原告会社との間に当座取引がなかつたため、同支店当座預金係員は支払を拒絶し「取引なしにつき支払いに応じられない」旨の付箋をつけて右手形交換所を経由し訴外銀行長原支店に返戻したこと、被告銀行当座預金係員および訴外銀行長原支店の当座預金係員が同月一三日右手形交換所に対し本件小切手につき不渡届を出したこと、その結果、右手形交換所は、翌一四日加盟銀行本支店に対し、原告との取引を禁止する旨のいわゆる取引停止処分をなし、加盟銀行各本支店に通知したこと、本件小切手が昭和三三年八月頃まで被告銀行堀留支店と当座取引のあつた訴外会社に同支店から交付され、使用残りとなつていた小切手用紙の内の一枚を使用して作成されたものであること及び本件取引停止処分は、その後事情を知つた原告会社の奔走により訴外株式会社三菱銀行丸ビル支店が右手形交換所に対しその解除を申請した結果同月二二日解除が承認されたことはすべて当事者間に争いがない。
二、《証拠》によれば昭和三五年七月二〇日東洋経済情報(不渡速報版)なる取引業界紙に、本件取引停止処分の事実が掲載されたことを、また証人久保田勇の証言によれば、本件小切手は何人かが擅に原告会社名を冒用して偽造したものであることを、それぞれ認めることができ右各認定に反する証拠はない。
三、そこで、本件取引停止処分が行われたことについて、被告銀行堀留支店の当座預金係員に過失があるかどうかを判断するに、銀行取引停止処分が、事業者の信用に対し甚大な打撃を与えるものであることは明らかであり、たとえ後日それが錯誤に基づくものであるとして撤回、解除の方法が講じられたとしても、さきに蒙つた汚点は、容易に払拭されるものではないから、取引停止処分が決定されるまでの関連事務に従事する職員は、不測の損害を防止するため細心の注意をなすべき業務上の義務あることは多言を要しないところである。
叙上の観点に立脚して、まず、請求原因(四)の(イ)の主張について、按ずるに、証人上原聰の証言によれば、小切手用紙は当該銀行から交付されたものに限つて使用が許されていることが認められるが、右の事実と小切手そのものに対する社会的信用に徴すれば、銀行が当座取引を解約した場合において、もし、さきに取引先に交付した小切手用紙が使用されずに残つているときには、その悪用を防止するため、遅滞なくこれを回収すべき義務があることはまさに原告主張の通りである。
ところで、証人荒井清治の証言によれば、被告銀行堀留支店の当座預金係は訴外会社が倒産し、当座取引が終了した際訴外会社に交付し、使用残りとなつていた小切手用紙を回収すべく、直ちに右訴外会社に赴いたが、責任者の行方は不明であり、その後も近所の人達にその消息をたずねる等して調査をしたけれども遂にその行方がわからず、結局右小切手用紙を回収することができなかつた事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。右認定の事実によれば、被告銀行堀留支店の当座預金係員としては、訴外会社の未使用小切手用紙の回収について、相当の努力をしたものと認められるからたとえ回収の実を挙げることができなかつたとしても、右係員に過失があるということはできない。
次に請求原因(四)の(ロ)の主張について検討するに、《証拠》によれば、被告銀行では、取引先に交付した小切手用紙の番号は発行先名簿なるものに控えておくという処理をしておること、本件で問題となつている小切手用紙も、これに記載されていたので、本件小切手が手形交換で被告銀行堀留支店に廻つてきた際に、同支店、当座預金係員は、右名簿によつて、本件小切手は、訴外会社から未回収の小切手用紙により作成されたものであることを発見したこと、そこで直ちに持出銀行である訴外銀行長原支店に電話でその旨通知するとともにいかなる所から振出されたかを入金先に照会し、その結果を知らせてくれるよう依頼したところ、折返し訴外銀行長原支店から、本件小切手の入金者は訴外理研光学工業株式会社であり、右訴外会社のセールスマンが、テープレコーダーの代金としてある会社から受取つたものであるが、その会社の名前等は目下そのセールスマンが不在のためわからないから、わかり次第連絡する旨電話があつたが、その後その日の内には訴外銀行長原支店より何の連絡もなかつたこと、当時被告銀行堀留支店では本店を経由する代理交換であつたため、手形交換で小切手が廻つてくるのが午前一一時半前後であり、翌日の交換にかける手形小切手は、同日午後四時までに整理して本店に持参しなければならなかつたが東京手形交換所規則によれば不渡返却は必ず翌日の交換にかけるべく、これを徒過すればもはや不渡返却は許さないこととなつていたので、被告銀行堀留支店は、訴外銀行長原支店の回答を待たずに本件小切手を不渡処分にしなければならぬ必要に迫られていたこと。被告銀行堀留支店としては、本件小切手はいわゆる事故小切手であるとは推認されたが、偽造であるかどうかは判明しなかつたので、「偽造」として返却することはできず、さりとてまた「事故小切手」という返却事由は取扱事務上認められていなかつたため、やむなく当座預金係長や当座預金係員が協議の上「取引なし」との事由を付して返還したものであること、以上の事実を認めることができる。証人松岡潔の証言中右認定に反する部分は当裁判所の採用しないところであつて、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。右認定の事実によれば、被告銀行堀留支店当座預金係員が、本件小切手の不渡返却に際して採つた措置は、一応妥当なるものと認めるのを相当とする。
原告は「本件のような場合においては、被告銀行は会社便覧あるいは電話番号簿等により、小切手振出名義人の存在を確かめるなど万全の方法を講じ本件小切手が偽造かどうかについて詳しく調査すべき義務がある。」と主張するけれども、証人荒井清治の証言によれば被告銀行堀留支店においては、交換から廻つてきた手形小切手は、午前一一時半頃から午後四時までわずか五時間足らずの間に、印鑑を照合して当座預金元帳とつき合わせ、額面が預金残高の範囲内のときには引落し、預金残高の不足する取引先に対しては入金を督促し、それでも入金のない場合には当座取引のない手形小切手と共に付箋をそれぞれつけ、不渡事由を記載するという事務を処理しなければならず、しかも当時被告銀行堀留支店では当座預金係員はわずか一名で交換から廻つてくる一日平均約二〇〇枚の手形、小切手につきこのような事務を一切処理していたことが認められるから、振出名義人たる会社が実在するかどうかわからない場合に、会社便覧や電話番号簿などで調査し、もし、実在することが判明すれば、これに電話等で連絡するという措置をとることは、実際問題として不可能であつたと認めるのを相当とする。また、証人上原聰の証言によれば、被告銀行以外の市中銀行においてもこうした事情は、ほゞ被告銀行堀留支店の場合と同様であること、従つて本件の如き場合に、一々手段を尽して振出名義人を調査し、これに連絡するということは実務上不可能であると認めるのが相当であるから、被告銀行堀留支店の係員が原告主張のような措置をとらなかつたとしても、必ずしも過失があるということはできない。
四、そうだとすると、被告銀行堀留支店が、訴外会社から本件小切手用紙を回収しなかつたという点については勿論、本件小切手の呈示を受けた際に採つた措置についても過失があつたと認めることは困難である。さきに一言したとおり、銀行取引停止処分を受けることは、事業者にとつて重大な打撃であり、一片の解除とか撤回とかの処分によつてたやすくその信用が回復できないことは多く説明を要しないところである(証人上原聰の証言中この点に関する部分は措信しない)から、それに関係ある事務に従事する金融機関の職員は、細心の注意を払つてその職務を遂行すべき義務のあることは明らかではあるが、さりとて金融業界の実状に照らして考えると、あまりに過度の注意義務を要求することは結果において不能を強いることになるから、当裁判所としては前認定のような事実関係の下においては、被告銀行堀留支店当座係員の採つた措置は完全とはいえないまでも、相当であり、過失はないものと判断した。原告会社としては、全く関係のない第三者によつて小切手を偽造され、被告銀行堀留支店係員のなした不渡返却処分の結果、数日間とはいえ、銀行取引停止処分を受け著しくその信用を傷つけられたのであるから、本訴を提起した趣意も十分に諒解されるのではあるが、前示のとおり法律的にみて、被告銀行堀留支店係員に過失が認められない以上本訴請求をこれを認容することはできない。